6 お茶にしましょうか

f:id:Balance1950:20210328175909j:plain

問 禅について 言葉や動作は網羅してます。言葉ではないのを教えてください。

趙 老僧は日課と沐浴をおえました。お茶はまだです。

 

Translation for Erika and Walter

 

Q. I have learned Zen by all words and acts. Please teach nonverbal method.

P. I have finished daily schedule and bathing. Yet tea drinking.

 

After ascetic practices, tea drinking is nice opportunity to discover.

 

138段

問ふ「およそ言句あれば、挙手動足ことごとく学人が網中に落つ。これを離れてほかに、請う師道(い)え」

師云う「老僧齋しおわりて、いまだ茶を喫せず」

鈴木大拙校閲秋月国訳は上記。 離此外 請師道 は 言語をはなれて道の在処を問うたのでしょう。

まず 質問者の「禅についての記述はことごとく学んだ。言葉でないのを教えて」という自信満々にビックリであるが、そんな研究者タイプ(学人)も趙州和尚の身近にいたようである。そんな質問に答えてしまう趙州の容量とやさしさにもっと驚いた。

「老僧(趙州)は礼拝読経座禅の後 沐浴し身を清めたところである。まだお茶を飲んでいない」つまり修行瞑想の一環としての喫茶。そこからの発想、境地、愛語。言葉、概念の生まれてくる場への誘い。

私は 有楽流の茶道の家元道場にいたころ 献茶会の日 家元は早朝から沐浴して身を清める という話を聞いたことがある。茶道の人々は禅寺での厳しい修行としての喫茶と考えていたと思うが、禅僧の方では修行後の憩いつつ自由発想の時 ということなのでしょうか。

趙州和尚の逸話として 来訪者に「禅は?」の質問のあと、 初心者には「それではお茶でも」 中級の人に「それではお茶を」 かなりの達人は「それではお茶でも」で、趙州は平等に扱った というのがある。初級者には割れ茶碗の白湯 中級者には番茶 上級者にはコーヒーとか ではなかった という記述を目にしますが 喫茶 お茶を飲む の意味が 疲労回復 栄養であったり お菓子的享楽的 にとらえられている気がします。そうではない というのがはっきり伝わってくる一段。

 

 

f:id:Balance1950:20210331175655j:plain

趙州録 28段

 

問 24時間の過ごし方 どんな心の用い方が良いのでしょうか?

趙州 あなたは24時間を 時間に追われるようにすごしていませんか?

   私は24時間のすべてを使い得ていますよ。

 

問ふ「十二時中、如何か心を用ひん?」

師云く「(変換不能文字上掲書中の文字参照 あなた の意味)は十二時に使わる、老僧は十二時を使ひ得たり。あなたは那個ナコの(どの)時をか問ふ?」

 

仕事の日々 ゆったりした気持ちになるのはむつかしい。

永平寺での参禅の日々 背広で座禅をしている人 自衛官とか 一泊研修か 後ろ姿 廊下をとおりつつ見たのを思い出しました。一生懸命は伝わってきますが 汗が抜けきらない。そんな人からの質問なのでしょうか?