趙州録 藍は貴く 米は賎し

趙州 じょうしゅう の言葉。趙州録 231 

「趙州和尚の仏法とはどんなものですか?」

「仏法には藍のように高貴なものもあるが わたしのは米である。貧しい人の日常の糧となる仏法」

 

いや

「藍のような日常の美的世界を尊重する仏法 飲食に拘泥する生き方は賎しいとしたい。」

 

趙州録は名著であるが、翻訳する人はいない。

考えていると 趙州のお寺にいるような気分になれる。

 

愛はいつも創造的 OSHOの言葉

仏教では 愛は煩悩の一種として否定されている。愛は執着であり、愛は抑制すべきもの と私は理解している。

 

ただ日本の大家には 密教では男女の交会は涅槃? 本居宣長は愛って最高と評価。

”人のこころの感ずること、恋にまさるはなし” 宣長「玉の小櫛」

 

”愛は人の存在にまったく異なる次元をひらく

愛がなければ 人は論理の世界に閉じ込められたままになる”

  和尚 OSHO  インドの人1931~ 1990

 

愛を含む煩悩の炎を消し 無。

無はなぜ尊いか。自由な出発 創造ができるからである。

つまり 愛を否定すべき局面もあり 輝ける存在と見上げる局面もある。

 

 

コムニオ communio キリスト教ワイン法悦

コムニオ 聖体拝領 

 

キリスト教のミサというのはワレラ仏教徒からすると キリスト教の中心儀式 濃密な、 聖なるイベントらしく 未知なため 排他的に感じられ/気持ち悪い要素の存在を推定するのであるが、西田幾多郎の「知ることは 愛することであります」にみちびかれつつ 調べれば 

 

始まり 音楽に伴われて 司祭入場

祈り その時節にふさわしい聖書の朗読/司祭の言葉

祈り 合唱しつつ 情緒は聖なるものへ一体化

祈り ここで コムニオ 「聖体拝領」 ?? 「一緒に葡萄酒を飲み パンを食べ イエスを想う」

祈り 閉式

 

みんなで 祈り・黙想 歌って 食べて 飲んで よくできた楽しいイベント。

聖体拝領というと重々しいけど 一緒にワイン飲んでパンをたべること らしい。

コムニオとは共有を意味する。

 

仏教の法事は お経の内容がワカラナイし、音楽的でないし、お説教は叱られバカにされてるようで お酒も出てくるけど あくまで儀式終了後の精進落とし。 キリスト教を他山の石として カイゼンすべきです。

座禅にしても 静かな場所で 孤独に。・・・

 

現実のキリスト教のミサは ワインはまずいし パンはひとかけら。寄付のお金にさわった汚い手で パンの皮ひとかけらを口に入れる ・・・。キリスト教の牧師さんのお話も感心したことは一度もない。これは不信心のワタシの経験でしかないが、

篤信の人々も ミサの後 いつものソバ屋の二階で一杯 が定番コースらしい。「ワインが安い」という声がここでも聞こえてくる。

仏陀の遺髪 青紺色

「南史」扶南国伝に「武帝、阿育王仏塔を改造して、旧塔下舎利および仏の爪髪を出だす。頭髪は青紺色なりき」とある。

わたしは菩薩を金髪碧眼にえがいたが、展覧会でどなたも異議をとなえなかった。

最初は奈良時代の色を忠実に使ってみたが 赤青緑 中華街の色彩でなじめなかった。近代日本画女流作家の色調を参考に彩色。

仏教は 国際的 融合文化。絵に描くとこのようなものか と考えている。

 

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科学のもたらす新たな認識 信仰もともに進化すべし

科学と宗教は対立するかのように記述されることが多いように思う。

科学的発見で新たにできるようになることが宗教的には問題がある といった記述である。

 

ダーウィンの「種の起原」は「創世記」を否定するものか?

その後 ダーウィンの見解と調和するキリスト教の動きもあるという。

 

科学の発展に伴って 宗教観も進化すべきであろう。

過去の科学的知見 ー 過去の宗教的知見

新たな科学的知見 ー 新たな宗教的知見

科学の発見は宗教的世界観の否定ではなく 宗教理論の一般化、新たな世界観を促している。

 

「科学主義」と言っていい無宗教な心的態度は貧しい。

知人友人の医者が葬儀、祭壇、墓地とかを疎かにする行為を目前にするのは残念なことである。

信仰としての歌 信仰としての読書

歌をどのように楽しむのか 味わうのか?

カトリックグレゴリオ聖歌によるミサ の歌の楽しみ方に心惹かれる。 演歌の恋の感情よりなど わたしにはキリエ グロリア などを静かに聴いていたい。

ギリシャ正教の聖書の句から歌う聖歌から瞑想に誘われる これはマリア・カラスの歌声より気持ちが救われる。

 

読書 何をどう読むのか。

ギリシャ正教の聖書の読み方は 個々人が思い思いに読んで勝手に解釈するのではなく指導者が伝統の読みを示す。 夜明けの礼拝を 読書 と呼んだりする 読書の在り方。

 

トルストイもルソーも マルクスも読んだ。

しかしむなしい。

そしてギリシャ正教の読書に心惹かれる老後の今日このごろである。

 

教育とは何か ひとことで言えば・・

信仰のあり方を見つめながら 教育 をみると・・

 

教育とは

ユダヤ教 人間存在の意義を伝え 神との契約関係を生きる 

キリスト教 自己本位から 愛に生きる人間への変容

 

そんな人にお目にかからなかった気がする が

立派な人は 静かに暮らしてみえるのであろう