趙州 じょうしゅう の言葉。趙州録 231
「趙州和尚の仏法とはどんなものですか?」
「仏法には藍のように高貴なものもあるが わたしのは米である。貧しい人の日常の糧となる仏法」
いや
「藍のような日常の美的世界を尊重する仏法 飲食に拘泥する生き方は賎しいとしたい。」
趙州録は名著であるが、翻訳する人はいない。
考えていると 趙州のお寺にいるような気分になれる。
趙州 じょうしゅう の言葉。趙州録 231
「趙州和尚の仏法とはどんなものですか?」
「仏法には藍のように高貴なものもあるが わたしのは米である。貧しい人の日常の糧となる仏法」
いや
「藍のような日常の美的世界を尊重する仏法 飲食に拘泥する生き方は賎しいとしたい。」
趙州録は名著であるが、翻訳する人はいない。
考えていると 趙州のお寺にいるような気分になれる。
コムニオ 聖体拝領
キリスト教のミサというのはワレラ仏教徒からすると キリスト教の中心儀式 濃密な、 聖なるイベントらしく 未知なため 排他的に感じられ/気持ち悪い要素の存在を推定するのであるが、西田幾多郎の「知ることは 愛することであります」にみちびかれつつ 調べれば
始まり 音楽に伴われて 司祭入場
祈り その時節にふさわしい聖書の朗読/司祭の言葉
祈り 合唱しつつ 情緒は聖なるものへ一体化
祈り ここで コムニオ 「聖体拝領」 ?? 「一緒に葡萄酒を飲み パンを食べ イエスを想う」
祈り 閉式
みんなで 祈り・黙想 歌って 食べて 飲んで よくできた楽しいイベント。
聖体拝領というと重々しいけど 一緒にワイン飲んでパンをたべること らしい。
コムニオとは共有を意味する。
仏教の法事は お経の内容がワカラナイし、音楽的でないし、お説教は叱られバカにされてるようで お酒も出てくるけど あくまで儀式終了後の精進落とし。 キリスト教を他山の石として カイゼンすべきです。
座禅にしても 静かな場所で 孤独に。・・・
現実のキリスト教のミサは ワインはまずいし パンはひとかけら。寄付のお金にさわった汚い手で パンの皮ひとかけらを口に入れる ・・・。キリスト教の牧師さんのお話も感心したことは一度もない。これは不信心のワタシの経験でしかないが、
篤信の人々も ミサの後 いつものソバ屋の二階で一杯 が定番コースらしい。「ワインが安い」という声がここでも聞こえてくる。